ストロー

頭の中の整理

ものごころついた頃からずっとあるただぼんやりした不安

自分は幸せになるのにはふさわししくない人間だと思う。自分には人を不快にさせる部分が多くて存在するだけで迷惑。そのせいで何か言われて傷つくのが怖いから何もしたくない。自己否定と将来に対する不安と過去のネガティブな出来事の反芻で頭がいっぱいになる。何か一つの出来事でこうなったわけじゃなくて、生まれてから今まで毎日少しずつ心に蓄積されてきたものでこうなってるから、明確にどこで間違ったというのは浮かんでこない。ただ、全部自分の至らなさが悪いんだと思う。生まれてから今まで楽しかった期間が無い。そりゃ1日とか一瞬とかではあるけど、1年みたいな単位になると無い。何故か常にずっと苦痛を感じていて、そもそも生きることは苦行なんだと思っている。(この感覚が分からない人にはそんなことを言うなと怒られると思うが。)

もつとも僕の自殺する動機は特に君に伝へずともい。(中略)君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

芥川龍之介 或旧友へ送る手記

これすごく分かる。最後の一押しは最後の一押しでしかなく、それを回避できたところで心に積もり積もった鬱成分が無くなるわけでないし、むしろそっちが原因。死ぬと苦しみを感じなくて済むんだよね。生きてても毎日起きたらずっと苦しいんだから、死んで何も感じない方がラク

 

自分は中学生の時にいじめられていて、毎日学校へ行くたびに自分の悪口を聞いていた。自分が人を不快にさせるから自分が悪いんだと思う。仲良くしてほしいとか、優しくしてほしいとは思わないから、せめて構わないでほしい。存在しないことにしてほしい。だから出来るだけ目立たず、自分から話しかけたり声を発したりしなかった。でも自分は悪目立ちするのか何故か人の目についてしまい、中学を卒業してもどこへ行っても悪口を言われてきた。そのたびに傷つくから怖くて、新しい環境が今でも苦手。人を不快にさせてごめんなさい。今でも声を出すのが怖くて出来ないのは後遺症だと思う。仲良くしてほしいとは全く思ってないからせめて存在を無視してほしいと思うのは高望みでしょうか。

 

いじめられていた14歳の時に読んだ太宰治人間失格が人生で読んだ本の中で一番面白かった。こんなに自己否定と希死念慮を抱えているのが自分だけじゃなくて良かったと思った。人間失格って特にストーリーは無いんだけど、最初から最後までずっとつらい死にたい苦しみから逃れたい許してって書いてあるので、すごく自分の気持ちと重なって好きだった。

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人を不快にさせないように、人に好かれる人格を演じることに疲れてしまった。誰しも自分を演じていると思うんですが、週5日も演じるのしんどくないですか。5日演じて2日休みを繰り返すの、数週間ならできるけど、何か月何年と続くとスタミナが切れる。スポーツテストのシャトルランに似ている。もう走れない。みんな演じてないのかな。昔からよく、友達にも家族にも悩みがなさそうって言われるんだけど上手く表面を取り繕えてるってことかな。

自分には、わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかいなのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
 そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。

太宰治 人間失格

この自己と他者の感覚。こう思っているのが自分のほかに少なくとも一人、太宰治がいる。そう思えたのが良かった。

 

こうやってたまに自分を責めるのを、精神的な自傷行為と呼んでいる。

 

この歳でこんなこと言ってるのって恥ずかしいのかもしれないと思ったけれど、芥川龍之介太宰治も、エヴァンゲリオンを作った庵野秀明も、みんな35歳くらいであんな調子だったので、自分もあと10年はこれが続くんだと思う。10代の頃は、この傷は大人になって病院に行って治療すれば治せるんだと思っていたけど、今はこれは治すことが出来ないんだと分かった。精神科に何年も通って何時間も話したけど治らなかった。基本的には治すんじゃなくて、忘れて気にしないようにするものみたい。でも自分は、この傷は治さないとずっと心の片隅に存在し続けて緩く首を絞めているものだと思っていて、傷を治さないと幸せになれないと思っている。忘れるのも苦しみ損に感じる。だから自分には一生、つらさから逃れて幸せになるのは無理だと思う。

 

周りが結婚する歳になったが、結婚したいと全く思えない。小学校に入る前からずっと、恋愛はキラキラした人のやるもので自分みたいな底辺とは別次元の出来事だという感覚が抜けなくて、自分が恋愛や、ましてや結婚する様子が全く想像できない。それがコンプレックスになる人もいると思うんだけど、自分はそこに関しては全くコンプレックスになっていない。例えば、オリンピックで金メダルを取れないことをコンプレックスに思ってる人ってあんまりいないと思うんだけど、そんな感じで自分とは全然かけ離れた世界の人がやることっていう感覚がある。別に目指してもいない。人と関係を築こうとしたら少なからず問題も起こると思うんだけど、自分はこれ以上問題を抱える余裕がない。子供も産みたいと思えない。自分の人生が生まれてからずっと苦しいから子供にこんな思いをさせたくない。不幸な人間を一人増やすのは可哀想だから。今は結婚しない人も子供産まない人も多いし、別にこれはこれでいいと思う。自分とは逆に、当たり前のように結婚して子供産む人もいるんだろうけど、それはそれでいい。見方が違うだけで、どちらも同じ感覚なんだと思う。

 

早くつらくなくなりたいです。自分が幸せになるのはおかしいし、人に幸せにしてもらいたいなどという高望みはしていないので、せめてつらくなくなりたいです。自分を責めていないと現実との折り合いがつかないです。将来が楽しくなると全く思えません。全部自分の至らなさが悪い。自分を責めるのは罪悪感です。不快にさせてごめんなさい。私だって存在したくてしてるわけじゃないので見逃してください。存在してごめんなさい。

 

こういう文章って同じような思いをしている人には需要があると思ったので記しました。こういうのは臨床心理士とか人の話を聞く専門職以外の人には話さない方がいい。友達だとか先輩だとかはカウンセラーじゃないんです。素人には理解し難く、最悪ディベートしようとしてくる人とかもいるので。精神科医はカウンセリングしないので、心理士が居る精神科か心療内科がおすすめです。学校によっては無料でカウンセリングしてくれるとこもあると思う。心理士は話を聞くのが仕事なのでプロの心理士には思う存分喋りましょう。同じようにつらい思いを抱えている人に。